無事、卒業論文を書き上げることができたよ~~~ん!!!
卒業論文ではとある作品にドゥルーズ+ガタリの〈生成変化〉という概念を導入して読解したんだけど、ドゥルーズ+ガタリの理論について学ぶ中で、とりわけ言語の〈生成変化〉についての説明が面白かったので紹介してみるよ~。
(※もちろん卒論内容とは違う内容を書いているが、一部は卒論内容と被る内容もあるため、もし記事を公開しておくことがまずそうだったら一時的に記事を非公開にする可能性がある)
まずはドゥルーズ+ガタリが言語の〈生成変化〉について語る箇所を確認していくよ~。
帝国主義的な巨大なメジャー言語は、マイノリティの言語からの変化を被っているし、内的なマイノリティをもたず、変化しないのであれば、世界的なものになることはできない。この見方に立てば、たんにメジャー言語とマイナー言語を区別し、両者を分けることはそれほど重要なことではない。むしろ、真に着目するべきは、どれほど強固な言語の体制であっても、異質な要素を内的に含んでおり、変化しつつあるということにほかならない。それゆえに、「問題はメジャー言語とマイナー言語の区別ではなく、生成変化の問題である。問われているのは方言や地方語の上に再領土化してしまうことではなく、メジャー言語を脱領土化させることなのである」(MP 132/上二二八)。 あるいは、自由間接話法にかんするパゾリーニの一節に託して言われるように、「言語Aにほかならないが、実際は言語Bになりつつある言語X」(MPP134/上二二一)こそが問題なのである。(平田公威『ドゥルーズ=ガタリと私たち 言語表現と生成変化の哲学』(水声社、2023)p.172)
ここで言ってる内容をわかりやすくまとめると以下の3つになるよ~ん。
(1)どれほど強固な言語でも、内側に異質な要素を含み、常に変化し続けている
(2)焦点となるのは、メジャー/マイナーの区別ではなく〈生成変化〉そのものである
(3)生成変化はメジャー言語を「脱領土化」する運動として働く
そのうえで、「言語Aにほかならないが、実際は言語Bになりつつある言語X」が問題だってことを示しているんだね~。
なんだか小難しい話を書いちゃったけど、ここからは筆者であるアクテンと友人のやりとりについて触れていくよ~。
僕はTwitterやブログ上で「◯◯だよ~~ん!!」とか「〇〇だよ~~!!」という語尾を多用しているのだけれど、結構リアルでも「◯◯だよ~~ん!!」とか普通に言ってしまっている節がある。だから、Twitterで知り合った大学の知人に初めてリアルで会ったとき、「アクテンさんってリアルでもほんとに「◯◯だよ~~ん!!」って言うんだ。現実世界でもそう言ってる人初めてみた(笑)」と言われてしまったことがある。大変恥ずかしい。
でも今になって振り返ると、実は、今いる僕の周りの友人たち、意外と「◯◯だよ~ん!!」とか「〇〇だよ~~!!」を平気で受け入れている。なんならたまに友人側が言うようになってきている。信じられないかもしれないが、僕が「〇〇だよ~~ん!」を擦り続けたことで、僕の周りの友人たちは僕がどれだけ異常な発話をしようが、すんなりと受け入れるようになってきているのだ。
あれ、これって日本語における「標準語尾」と「だよ~~ん!!」の間の〈生成変化〉として読めるんじゃないか?
被発話者(友人)側には「標準語尾」が立ち上がる。そして、「だよ~~ん!!」は友人の解釈行為を通じて「標準語尾」の地層そのものを揺さぶり、友人の言語世界に「日本語にほかならないが、日本語ではなくなりつつある言語X」の状態を作り出しているということが示された。
以上をまとめると、アクテン–友人の関係性において、「だよ~~ん!!」は〈マイノリティ〉の位置から〈生成変化〉を引き起こしていることが捉えられた。
ここに書いてあることは全部【戯言】にほかならないから、真に受けちゃダメだよ~~ん!!
【リンク】
平田公威『ドゥルーズ=ガタリと私たち 言語表現と生成変化の哲学』(水声社、2023)
仲正昌樹『ドゥルーズ+ガタリ〈千のプラトー〉入門講義』(作品社、2023)
ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー 上 -資本主義と分裂症』(宇野邦一ほか訳、河出文庫、2010)
ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー 中 -資本主義と分裂症』(宇野邦一ほか訳、河出文庫、2010)
ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー 下 -資本主義と分裂症』(宇野邦一ほか訳、河出文庫、2010)



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