小学校高学年か中学生くらいのころ、魚のつかみ取り体験をした。川に網で区切りがしてあって、そのなかで魚を追いかけて捕まえるというものだった。
僕はもともと鬼ごっこをあまり面白いとは思わない子どもだった。ただ走るだけ。捕まるかどうかは足の速さのみ。それよりはドロケイ(あるいはケイドロ)のような、駆け引きの要素があるもののほうがゲーム性があって好きだった。だから、魚のつかみ取りにもあまり期待はしていなかった。
川は冷たくて気持ちよかった。魚に少し近づくと、少し遠くへ逃げる。手を伸ばしてみると、近づく前に逃げる。意外と難しい。今度は素早く手を伸ばしてみる。触れる。ヌルッとして、スルスルと滑り抜ける。何回も繰り返した。楽しんでいる自分に気がついた。こんな単純なことで楽しいと思うことに新鮮に驚いた。これを純粋に楽しめているということ自体が、自分が思ったより健康な状態であるという証になっている気がした。人間という動物の本能的な楽しさが刺激されたのだと思う。それと同時に、この魚にとっては生死がかかっているのに、僕はこれを楽しいアクティビティの一つだと認識していて、”こちら側”と”あちら側”の認識の差にびっくりしたことを覚えている。
魚をつかみ取る行為はとても楽しかったが、その行為を娯楽とすること、娯楽として提供している施設があることはあまり好きではないなと思った。四角形の川で追い続けられて、だんだんと鈍くなっていく魚影が、ゆらゆらと、終わらない夏休みのようにずっと記憶にこびりついている。


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